2020年も残りわずかとなりました。
たくさんの方にブログを読んでいただき、感謝の気持ちでいっぱいです。
個人的には、2020年は発達障害の診断から始まり、発達障害と共に歩んだ一年でした。
2020年の最後は発達障害に関する内容で締めたいと思います。
社会が発達障害者に対して感じること
記事の内容よりも、その記事に対してのコメントがとても興味深いです。発達障害の人もそうでない人の意見もいろいろあります。
最近多いなと感じるコメントは
- 周りに発達障害と思われる人がいて振り回されている
- フォローしてばかりで疲れてしまう
- 一緒に働くのは懲り懲りだ
- 本人に自覚がないのが一番困る。病院行けとも言えないし
- 本人の謙虚さが足りない(障害を言い訳にしている) 等々
これらの意見は私からしたらごもっともな意見です。
私はかつて会社でありえないほどミスを繰り返していました。全てを自分で挽回できるならいいものの、そんなことはできず、結局は周りの人のフォローが必要でした。
「お前の尻拭いのために働いているわけじゃない」と言われたこともあります。
私の場合は、真正面からぶつかってきてくれる人がいたため、自分がどれほど周りに迷惑をかけているか、周りの人がどんな気持ちでいるかということについては、理解しているつもりです。そのため、記事のコメント欄では周りの人がどれほど苦労しているか、ということに目がいきます。
理解を求めるのか
過去にこのような記事を書いているものの、周りに「理解してください」ということは口が裂けても言えません。
周りが理解しようと努めることは、かなり努力が必要で、辛く、厳しく、疲れを伴い、ストレスがかかることだと思います。
そもそも、一般雇用で、同じ労働条件、同じ給料で働いている以上、「理解してください」「考慮してください」と言うこと自体が、間違っているのではないかとさえ思ってしまいます。(発達障害診断済みの場合)
「周りと同じように働けないなら辞めろ」と言われれば、それまでだと思っています。一般雇用で働かせてもらっている以上、クビだと言われれば、それに従う覚悟はあります。(あくまで私の考え方であり、発達障害者の中での考え方は様々であることをご了承ください)
共存とは
いろんな人がいていい、その中で共存していくべきだというようなことが叫ばれているように思います。
でも今の社会では、誰かが我慢することでしか共存できていないと思います。もちろん我慢することも時には必要ですが、必要以上に誰かのために我慢することは違うのではと思います。
理想的な社会
いろんな人が共存するためには、何が必要なのでしょうか。
私が理想とする社会は、互いの凸凹をお互いに補えるような社会です。(障害あるなし関わらず)
私が今の社会で感じていることは、「一人で自分の凸凹を補わなければならない」ということです。自分の力で自分の凹を補うことができなければ、結果として他人に迷惑がかかることになります。
皆んなが同じようにできるべきであって、それができなければいけないというような風潮を感じています。(皆んなが同じレベルで同じように働くことが理想になっているように思います)
仮に人よりも凹の部分が大きくても、飛び抜けた凸があるかもしれないのに、その部分の可能性には目もくれません。(周りの人にはない凸の部分を活かすことができたら効率的に仕事を回すことができるのではないか)
凹の部分を求めるがあまり、周りが尻拭いをしなければならないという悪循環になっているように思います。
適材適所に置けることが一番だと思いますが、なかなか難しい問題ですね。
(安易な考えですが、入社前、入社後等、会社でもウェクスラー式知能検査のようなものを活用する方法があればと思います)
長くなりましたが、最後までお読みいただき、ありがとうございます。
この問題については、いろんな意見があると思うので、お気軽にコメントいただけたら嬉しいです。
良いお年をお迎えください。